明治以前
源平の頃に平家の落人の兄弟が旧木頭村の蝉谷とここ伊座利に分かれて 住みついた、という言い伝えを聞いた経験を持つ方もおりますが、 伊座利にいつごろから人が住みついたのか確かなことはわかっていません。 いずれにせよ、当初から主に漁業をして人々は暮らしてきたであろうと推察されます。 荒磯続きの漁村で生きるためには、小舟をあやつって磯ものや魚や海藻をとり、 農作物や生活物資と物々交換したり販売したりして暮らしてきたことでしょう。
明治から大正時代
伊座利の新田八幡神社の造営は、明治元年(1868年)で、
石段は明治三年に緑泥片岩で造られたものですが、
この緑泥片岩は吉野川流域にあるものなので、
おそらく遠路を造営のためにわざわざ輸送されたのでしょう。
このことからも、当時の伊座利の財力が偲ばれます。
![網をあげる](photos/osikipic.jpg)
明治23年(1890年)8月、伊座利浦村漁業組合が設立されます。 明治34年(1901年)の徳島県水産試験場の「大敷網漁場調査」で、 ブリを対象とした大型定置網(大敷網)の導入に伴う地形等の予備調査が行なわれ、 伊座利にも好漁場があったことが記録されています。 大正14年(1925年)、土佐資本の阿土大敷組合ができ、伊座利沖に大敷網を設置しました。 組合前に土佐からの技術者の宿舎があってにぎわったそうです。
昭和から平成時代
昭和になると、保証責任伊座利漁業組合、伊座利漁業会と名を変え、
昭和24年(1949年)7月、現在の伊座利漁業協同組合となります。
この写真は、昔の伊座利の浜、伊座利川の河口のあたりの風景です。
この写真は、みんなで大敷網を浜に干す作業をしているところです。
大敷網の経営は、昭和9年(1934年)以降、明神大敷組合、伊座利大敷組合、東海水産、
伊座利漁業生産組合、再び伊座利大敷組合と変わり、平成元年から大敷水産となりました。
小敷網は、昭和37年(1962年)からはじまりました。
昭和25年(1950年)に行なわれた「ブリ大敷網漁況調査」に、
伊座利でのブリの漁獲量が載っています。
それによると、伊座利で2月20日に獲れたブリの数は、6,766尾となっています。
無線がつく前は、獲れたブリの数を漁船に数に応じた旗を立てて陸に知らせました。
獲れた魚は、船で大阪の市場に運んでいたそうで、今のトラック輸送の代わりにあたります。
寝る暇もないくらい忙しく、長時間、浜に総出でブリをかついで運んだそうです。